ハッピードムドム by完全にノンフィクション 小野恭介

完全にノンフィクションというバンドのドラムスでございます。バンドのことをより楽しんでもらえればハッピーです。ドムドム。

プロダクト プレースメント 1

  見通しのいい道に差し掛かるとあとは一本道なので自転車の速度を緩めた。私が走っていたのは車道の方だったが路駐が多かったのとさっきまでの速度に飽きていたのとで道幅の広い歩道へと前輪を乗り上げる。イヤホンからは馴染みの薄い曲が流れ始めていたが音量は絞ってあるのでその音像まではわからない。大体、自転車を乗りながら音楽を聴くのは道路交通法違反じゃないの? と友達に言われたことがあったので調べたら、周囲の音が聞こえる程度ならば違反にならないらしい。しかしそれを確認するためには警察官の耳による判断が必要なので見つかったらすぐに呼び止められるだろう。
  ほどなく自転車を降り、それでも音量は絞ったままだったが、目についた自動販売機で缶コーヒーを買おうとした私は押しボタンへと伸ばしたかけた右腕でイヤホンのコードを引っ張ってしまった。抜け落ちたイヤホンはぽとりと地面に音をたてた。耳から離れた瞬間肩越しにいくつもの車道を通り過ぎていく車の音が近く大きく輪郭を持つ。街の音がする。街の時間が流れ始める。それは身体が刻んでいた時間を瞬間的に覆うから、身体の方は自然と折り合いをつけようとする。そして耳が裸になるだけで空気に色が付いて実在感が出る。少し秋の気配がしたがそれを感じ取っているのは鼻の方で、鼻にイヤホンをしていたのなら話は別だが私はつい今しがたまで秋の匂いは欠片も知覚していなかった。風は肌全体で感じるがこれも耳で音を聞くより目で視ている感覚で、ゴミが舞ったり不動産屋ののぼりがなびくのを見るのではなく風そのものが視える。空気の速い流れが色になって現れる。滲む水色に黄色い細い線が何本も走るような風だ。そうしている間に体内で脈打っていた小さな単位の時間はあくまで生理的反射として街の歯車が動かす大きな時間に通分され折り合いがつく。ぽとり、という音はそんな中で聞こえた。
  自転車を押していた私は荷物が多く、学校の鞄として使っているリュックサックと画材を入れているショルダーバック、その二つの素材の異なるストラップが胴体に巻きついた格好で、自転車の右ハンドルには絹沢に返すためのCDが三十枚ほど入った百均の紙袋が引っ掛けてある。なのですこぶるバランスがとり辛い。私はその重量に加えCDは借り物なので神経を使うから肩の凝りを帰宅する頃には感じるだろう、とわかっていた。自販機の中で冷えていた一つの商品が吐き出され、釣り銭口の小銭は自転車を支えている私の右ポケットに、だらしなくぶら下がったイヤホンはジャックが挿さっている左ポケットのプレイヤーのところにねじ込まれた。私は後でそのコードの絡まりをほどいたり丁寧に巻き取ったりリュックサックの収納ポケットに戻したりすることの煩わしさを思うと少し気持ちが沈んだが、今はバランスを保つことと約束の時間が迫りつつあることと肩や脇腹に食い込む鞄のストラップにかかる荷物の重量による倦怠感、暑さと運動による汗、それらに対処していかなければならない。イヤホンのことは後できっちり片付ける。そういう性格なのだから。取り出し口に横たわる缶コーヒーを手に取りパーカーの方のポケットに一旦仕舞うことにして歩き始めたが、なぜ今この買い物をしたのだろうとふと思う。イヤホンが外れて意思と無関係に、制御を超えて街の持つ時間とリンクしてしまったことも影響しているかもしれない。私はさっきまでの私の動作を今度は街の側に立って最大公約数的に考える。時間も迫ってきているのだから後でゆっくり買えば良かったんじゃないかと、そうすればイヤホンも耳から抜けることもなかったし荷物が重いことを今更意識することもない、必要以上に汗もかかない、時間のロスもない。今の私にはなんとなく、としか言いようがないが体内に流れていた時間の中ではそれでも実際的な喉の渇き以上に缶コーヒーを買って飲む、という形で休息を取ることへの強迫観念があったのかもしれない。マンネリへの恐怖と言い換えてもいい。それくらいここは、距離にすると家から遠かった。

  私はここに来るのは初めてではないのに全然知らない街みたいだ、と思うことがよくある。そういう時、絵を描きたくなる。と言っても、その場所の風景を描くのではない。それは写真で済ませる。どうしてかはわからないがそこが初めて来た知らない場所のようになると描きたい絵がぼんやりと浮かんでくる私はできることなら毎回そこに立ち止まって直ちに作業を開始したい。私が描くのは一見すると何の関係もないように他人には映るだろうシチュエーションや人物の表情だ。見えている風景からの連想で描くのだが、物語のワンシーンに近い。緻密に構成された物語のシーンではなくただ単にシーンだけがあるのだが、ただし、そこにドラマを感じさせるものでなければならない。それが一枚の紙に色を重ねて表現される。見慣れた自分の部屋でも学校までの道のりでもそれは起きた。そして絹沢が立っていたのもそんな場所だった。何度も待ち合わせに使っている商店街の入口のハンバーガーショップの前に立つ絹沢は雑踏に紛れて足を止めて窺う私に気付いている様子はなかった。
  ところでぼんやりと浮かんだ描きたいイメージは絵として実在し始めない限り存在したことにならない、と、私は常日頃思うその頻度でまた思う。輪郭はおろか、匂いや手触りを持たない。音も聞こえてこない。ここで言うそれらは五感で感じるものではなくて視線が絵にぶつかること、つまり視覚によって喚起されるイメージのことを指すが、そういう類のものは個々人想像力に委ねられるものであって私の絵は私の想像のままに描かれるだけなわけだからやっぱりそれ自体に意味はないんだ、とまた思う。意味は求めるべきじゃないし、地球上にたった今新たに絵が生まれることにも人類の営みの歴史のなかに明日描く私の絵が加わることにも意味のようなものは何一つない。にもかかわらず存在したことにならないと気が済まないのは私の体内ーー脳内?  いや、体内とするべきだ——で芸術もまた日常生活の大半を占める雑多な思念——浮かんでは忘れるの繰り返しの運動ーーと同じカテゴリーに属している、ということに罪深さを感じるからだった。芸術は恐らく人間という動物が種として人間らしくいるためにどうすればいいのか真剣に考える唯一の現場で、しかも意図されてそうなったのではなく習性としてそうであるのが本当のところだろう。そして現場内での行為に没頭できる人間はそこで嘘をつけないようになっている。謂わば使命感を持っていて、表向きは社会と折り合いをつけるために大人達は「趣味なんです」という言葉を使うが芸術で生計を立てていなくても没頭できる人は毎度何かを犠牲してでもそれを完遂するという覚悟を持ってやっているに違いない。そう思うと意味がないということには少なからず意味があるのかもしれないという気がしてくる。
  端的に言うと「魂を込める」ということなのだがこの表現は使い古されていて魂は込めるものだと慣用句化してしまっているからこれだけでは何も言い得ない。それが時代のムードというやつなのかもしれない。迂遠な言い回しは今や敬遠されるばかりでなく露骨に嫌がられるようにもなった。それは一部の小説愛好家達の嗜みとして根強く実験と研究がなされてはいる。私は文学にはさほど精通していないがそのようにして趣向を凝らされた文章表現には興味があったので、それを自分の絵に反映できないかと考えているのである。

  初めはズドンとくる詩が好きだった。一発の言葉ですべてを突き刺したり包み込む言葉。それらは絵に近い。まるで言葉で絵を描いたような印象だったのだ。逆に言葉を絵で描くことを画家はしただろうか。言葉はいつの時代でもそれそのものではなかったはずである。りんごという名詞も、言葉で書かれればりんごという概念になってしまうような、そういうランボウなところが言葉にはあるよな、と絹沢は言った。ここで私が出した絹沢という名詞は特定の人物なのでりんごほど抽象的ではないにせよ、それがいつの絹沢だったのか私の記憶の中では判然としないのだが二年以上は昔のことだったのでどんな状況でどんな手振りで話していたか、その姿は記憶のどこを探っても見受けられず今では言葉だけが私の中にある。絹沢の実体そのものではなく絹沢という概念の一部分である、ということだ。それを絵で表すことが私にはできるだろうか。有名無名にかかわらず、今までこの世に存在した画家達はそういった試みをしてきただろうか。そのくらいのことは恐らくある、古い時代からあった、というのが私の直観だが、それが最近の興味事なのである。
  言葉の表現であるところの詩と言葉のような抽象性を纏った絵が歴史的にどちらが古いか、ということは問題ではない。昔のことに言及しようとする時、私たちは論ずる。体系的な史実のまとまりから得られる推論による考察。それは現場ではないし、現場にそれを持ち込むことは敗北しているようなものなのだ。芸術は思考の堆積や痕跡のキラメキでありそれは光や音の力を借りて光速・音速でもたらされる、と絹沢は言った。そのあとはこう続く。
「思考のスピードだけではそれを芸術性にまで昇華できないしキラメキを発するまでの思考がなければ作品は作れないよ」
  これは概念になった絹沢にこう言葉を続けさせて理解しやすいように私が捏造したものだ。本当はもう少し違った赴きのことを彼は喋っていたのだろうか、実体の絹沢のことは忘れているが、これが意訳だとしても私に都合のいい方に引き寄せている点では同じだ。絹沢は音楽をやっていて作詞もしている。私は絵を描いている。とても近く、遠い存在だ。時と場合によるのだ。
  いつもは酒を飲んで話をし、話題も酒も移り変わるにつれ徐々に酔っ払っていくのだが今日は趣向が違って、彼が私に聴かせたいという何とかというバンドのライブを見ることになっている。初め誘われた時、私は貧乏だから金がないよと断った。しかしチケット代は持つと絹沢は言って、彼も金持ちではないはずだがそうまで言われたらたとえ場所が遠くても貧乏な私は自転車をこぎ出さねばならない。頭の中の地図によると彼の住まいはそう遠くない地点なのでついでに借りっぱなしになっているCDも返すことにした。絹沢には知らなかった音楽を色々と教えてもらっている借りがある。

「游児も誘ったけど、今日はカンノンのライブに行くんだって」
「かんのん?」
  私はすぐに寺を想像した。仄暗いお堂で光輝く観音像がいて人々がそれを熱狂的に囲み、やんややんやと喝采を送っていて、絹沢同様高校時代からの友人である太鼓原游児はその最前列にいる。しかしライブと絹沢が言うのだからこれは絶対に違うだろう。この思いは常識的な価値基準によってではなく私の中にあった絹沢の概念がそう思わせていて、もし私の想像の通りの風変わりなイベントならばもっと丁寧な説明をするか、楽しそうにしたはずである。
「完全にノンフィクションのライブだよ。略して完ノン。うっかりしてた。俺も知ってたら三人でそっちに行ったのに」
「なんじゃそりゃ。変な名前」
「あれ、貸したCDの中にあったと思う。確かここにーー」
  絹沢は私から受け取っていた三十枚ほどCDが詰められている百均の紙袋を探る。「あった。これ。これがファースト。俺らは青盤って呼んでる」
  それは確かにデータを入れた覚えがあった。ジャケ写は一面、古い型のパソコン(だと思う)の前面の写真で、濃い青色の画面上に『※この音源は完全にノンフィクションです。』と白い文字で書いてある。どうやらタイトルらしい。私は絹沢から受け取ったそれは眺めているうちに妙な感覚になったので何事かとしばらく、と言ってもほんの一、二秒、その違和感の原因を探ったら、CDケースの仕様が逆開きになっているということに気が付いた。一般的にはCDケースは開いている状態だと正面から見て右側にディスクがあるが、これは左側にある。要するにプラスチックケースの上下を逆さにして裏ジャケが仕込まれていて、歌詞カードも左から挟んであった。改めてそれを見た私は自分のノートパソコンにデータを移す際にこのバンドを聴いたか憶えていないが、ひねくれてるな、と思った。絹沢にCDを返し、どれ、帰り道にひとつ聴いてみるかと思ったが、私は『※この音源は完全にノンフィクションです。』を既に聴いていたのだった。音量を絞ってあるのでその音像は全く掴めていないが、左ポケットのぐちゃぐちゃにねじ込まれたイヤホンコードを直そうとした時にそれを知った。音楽プレイヤーのボタンに手が触れてディスプレイに表示されたからだ。

  援交少女 after the 2011/完全にノンフィクション