ハッピードムドム by完全にノンフィクション 小野恭介

完全にノンフィクションというバンドのドラムスでございます。バンドのことをより楽しんでもらえればハッピーです。ドムドム。

プロダクト プレースメント 2

  目の前を通り過ぎていく寿司は話しているときは意識されないが、私は手元の寿司がなければ一瞥くらいはする。昔と違って回転寿司も生産性より鮮度や品質を重んじるところが増えているそうで、今の時代いかやまぐろも乾いたネタを見つけることは難しく、元々そんなものは当然食べたくはないのだが意地が悪いのかついそういう"アラ"を探してしまう幼かった頃の癖が抜けないでいた私は太鼓原游児と絹沢のしている音楽の話が一種の専門的な領域に入ったのを機に寿司を眺めていた。ほぼカウンターしかない店なので三人横並びだ。私は真ん中ではなくて良かったと寿司を見ながら思った。三人のなかで一番右にあたるこの座席は店内を走る寿司のレーンはコンベアがグランドピアノを上から見た形に似ていて、正確には左右反転した形だが、その反転した最高音の鍵盤から低音になっていく向こう側まで見える、角の席だった。寿司は反転した低音から高音にかけて流れてくる。つまり私めがけてやってきて、目の前で回れ右して絹沢たちの方へいく。角の愚図つくヤツがいると混線して玉突き状態になり、内側はすべて板場になっているから私はすぐ近くにいる板前が交通整理をするのかと思ったが、たとえ角から角の寿司約十五枚がかちゃかちゃと音を立ててレーン上を騒がしくしても彼らはそちらを見ないしそこに意識はない。黙々と、彼らは寿司のことでも私とまったく違う角度から捉えている様子で立ち働く。近くて遠い存在である。隣で熱弁している絹沢と游児も、同じ音楽のことでも違うことを違う言語で捉えている、話が噛み合っているように見えるときほどそう思う。そして二人もそのことは諒解済みであった。それは現在、広く人々のこころに浸透しつつある、と私は感じていた。誰もが互いの理解を超えたところを持ち寄って接しているのは同じ理想を追い求めずとも疑いようのないことだった。寿司は平常のスムーズさを取り戻している。真鯛の隊列がレーンを流れていく。游児は会話しながら、ほとんど見ていないように取って食べる。絹沢の方に身体を向け熱心に喋り寿司を一貫食べるがほとんどが一皿に二貫だ。食べ終わっていない皿が三皿あることから、話の途中で手元の寿司がなくなるとレーンを一瞥して惹かれたものを選ぶという私の食べ方とは違うことがわかる。絹沢はレーンの寿司には手を伸ばさず、最初に直接板前に注文した何皿かは食べたが主にビールを飲み、身体は正面のまま首から上を少しだけ相手の方に向けて相槌を打つ。これは逆隣の私の存在を気に掛けてもいるはずだがだからという理由ではなく、三人の関係性によるところが大きい。游児がよく喋るからいつものように聞き手役に回っているのだ。
  レーンの寿司を食べないで思い出したように店員を呼び何皿かを注文して握ってもらったものだけを食べる絹沢は私が無言でいることには気が付いていた。この場合、会話に参加しないという形で現場への参加を果たしている、と十年前の私は思った。だが今ははっきりと違っていて、私は寿司を食べにきていて、一緒にいる彼らの口元は音楽の話に忙しく、むしろ寿司から遠ざかっている、と目で見たままの事実を疑わずに信じることができるから絹沢は安心した。その安心感は何らかの気配となって游児にも伝播していた。
  絹沢が私からしたら唐突に「すみませぇん」と店員を呼んだ。こういうとき絹沢の声はイヤに大きくはきはきとしていて私はいつも可笑しいが彼に言わせれば私の声はこの店のようにざわざわした空間だと埋もれてしまっているらしく、周波数の問題なんだそうである。元々の声量のなさとカツゼツが悪いことも関係しているようにも思えたからそれを指摘されてからは極力シチュエーションに応じた発声を心掛けるようにはなったがこの話は特に誰にもしていない今思い出したまでのことで、やっぱり絹沢の店員に注文する声が普段とトーンもボリュームも全然違うから私は急にやられるとびくっとして可笑しいから好きだ。
  絹沢は私と二人だと口数はもう少し多い。口数というのは単純に、頭数が減れば増える、という類のものでもないからこれも三人の関係性によるところが大きい。その点游児は私の知る限り誰といるから口数が増えたり減ったりする、ということはなかった。游児だって喋りたくない時と場合や、そんな相手もいるだろうから単に私が知らないだけだとするべきである。それを差し引いても游児はおしゃべりで、自分の話をするのが特に好きだ。絹沢は自分の話をしたがらない上にひとの話を聞くのが楽しいタイプだから私と二人でいるときに増えている分の口数は単純に自分に関する内容ばかりでもなく、せいぜい好きな食べ物やバンドの話くらいだが、見えている世界について徹頭徹尾俯瞰されている。俺はこうなんだ、という話し方をほとんどしない。しかしそれらを語るとき彼はいきいきとしていて、つまり自分で取捨選択して喋るのだからたとえそれが時代——人々の趣味嗜好やその移り変わりについて——や魂やアニミズムのこと、長芋の天ぷらの話、完全にノンフィクションというのはどういったバンドなのか、といったことを俯瞰で語っても、絹沢は自分の話をしているに等しい、と私は感じている。同時にそれは私がここで絹沢や游児という親しい友達の話をするのは自分の話をしているようなものだ、と言っていることにもなる。

「だからさ、みんな寿司が食べたい、それは寿司がすべてだと思ってるからだろ?」
  私は唾が勢いよく游児の口から飛び出すのを絹沢肩越しに見えた。「こうシャリがあるだろ? それは確固たる寿司のルールではある。だからネタで勝負する。でも元々そんなルールは音楽に、ことロックミュージックにはなかったんだよ。シャリというフォーマットにネタを貼りつける、なんて。マーケットが理詰めで動くから作る側の思考が支配されてんだよ」
「まぁそういう市場に囲まれて育てばそれが好きで音楽を始める子がいるのは当然じゃないの」
「そこなんだよ」游児は絹沢の受け応えに反応する食いつきが早い。割り箸を咥えたり振り回したりして汚いが店内でそう思ったのは私だけだった。「そいつらは寿司のうまさは知ってる。むしろ専門的に熟知している。そして信じている。でも寿司のうまさしか知らない。それがすべてだと思い込んで疑わないからな。そら寿司は俺も好きだ。でももっとあるだろ他にもよぉ、うめえもんが」
「うーん、パエリアとかか?」
「寿司屋に来といてパエリアはどうかと思うぞ絹沢」
  游児はそう言うが魚介類がたくさん入っているイメージがあるからだと、逆隣の私が笑ったので絹沢はわざわざこちらに振り返って言った。私も意見を求められる。「よく聞いてなかったけど、魚は寿司だけじゃなく焼いたりダシを取ったりできるっこと?」
「全然違う。俺が言いたいのはな、あ、全然ってこともねーか、別に魚介類じゃなくてもいいし寿司である必要はどこにもないってことだよ」
「そりゃそうだ」
  私は首肯した。絹沢はビールを飲んだ。
「俺はねーー」游児は釣られてジョッキに手を掛けたがほとんど飲み終わっていたのに気付いて瞬間手が止まったが結局残り数滴を飲んで、「ロックは様式美じゃないって言ってんだよ」と言ってレーン上の炙りチャーシューのにぎりを取って一貫口に放り込む。「寿司が食いたきゃ寿司屋に行け」ともぐもぐやりながら言った。
  現に私達は寿司が食べたいから寿司屋に来ていた。それは一皿135円の回転寿司だった。この店を選んだのは今日は私と絹沢が貧乏だから予算の都合と、前にきたことがある、という安心感からだ。私たちは生ビール450円を何度かおかわりした。この店でなければならない、そんな積極的な理由ではなく条件が合えばこの店でなくても良かった。
「だからみんなライブに行くんだろ」
  と絹沢は半分呆れたように苦笑いした。その様子はずっと前から堂々巡りしていることを思わせた。「市場がそうで、需要がある、だからそれが場末のライブハウスだろうが末端のアマチュアバンドだろうがその市場に習って型式ができる。ごく普通の現象だろ。そこにお客が集まる。誰も悪くない。べつに寿司に喩えなくても游児の言いたいことはわかるよ」
「俺はね、客を驚かせたいの。寿司屋というライブハウスに来て寿司以外のもんが出てきたらびっくりするだろ? 例えばパエリアがよぉ。でもね、そのライブハウスってのは元々全然寿司屋じゃなかったんだ、みんなが寿司屋だと思ってるだけで。何でも屋だったんだ。そのことにあいつらは気付いていないからパエリア出されたら帰るんだよ、どうなんだよそれ!」
「何でも屋って響き、なんか懐かしいな」
「でもあいつらきっとさ、パエリアを握ってエビでもムール貝でも何でもいいけど乗っけて、寿司の形にして出したら食うんだよ」
「あー、ラテン音楽とロックの融合、みたいな?」
 「スペイン語で無理矢理古典落語する、みたいな?」
「そう。融合、みたいなことよ!」
  游児は絹沢の古典落語は無視してねぶっていた割り箸の先を私に向けた。「あいつら寿司の形になってたら酢飯じゃなくてもいいんだよ」
  絹沢は游児がひどく大雑把な意味で社会に憤慨していることを察して仕方がないから苦笑いをしている。游児も絹沢もバンドマンだが私の知る限りロックロックと口にするのは好まない人間ではあるが、それはロックという概念に執着していた中学高校時代があってのもので、成人して自分のバンドを持つとそこのところとのニュアンスに個人差がある。この場合折り合いの見つけ方の違いで、それはそのまま性格の違いで、延いては顔や体格が違うのと同じことだ。と、私は音楽はやらないから二人を見ていて面白い。
  実際作る側の主張は受け手に届かないことも多い。表現は伝えるためにあるのではない、ということなのかもしれない。伝えたければ伝わり易い言葉と演出が肝心だ。ロックで伝えれることは、ロックの演出の範囲に過ぎないのか。「そうでもない」と游児は言った。「そういったものを可能にする音楽のことを、俺はロックって呼んでる」
  その意味は多分正しい。言葉の意味は時代とともに横滑りしていくから、ロックというのはとっくに音楽のジャンルを表す言葉ではなくなったけれど、言葉が変わっただけで実際は変わっていない。そういった概念があるとすればそれはそれぞれのむねのなかに昔からあったものだ。
  それにしても游児の言ってることはめちゃくちゃだった。寿司を食いたきゃ寿司屋に行けと言ったが、彼が内側に抱えてる怒りは寿司を出したきゃ寿司職人に弟子入りしろということではないのか。話はさらに続いて、店がなかなか閉店しないからおかしいなと思って聞いたら朝までやっている店だった。午前一時前だった。ちょっとずつでも嵩んで会計はそれなりにいくだろう。「ビール飲み過ぎたきもちわるい」と言って游児はトイレに立ったのだが帰ってこない。
「すみませぇん」
  絹沢は例の私がびくっとする大声で店員を呼び会計を頼んだ。「ちょっと游児呼んでくるわ」と私に言い残してトイレへ向かった。游児の財布がなければここを払いきれないがそういうことではなく酔うとよくトイレに座って眠り込むから絹沢はいつも起こしにいく。そのあと私と絹沢は游児をタクシーに乗せるまで両脇を抱えて歩くのはいつものことだった。
  独創性を求め独自性にこだわる分、游児の言っていることは時に支離滅裂だったり論理が破綻しているが、その点は論理を超えていくのが芸術の現場だと信じれば済む話だった。ただ少し、自己主張が激しくて私は疲れてきていた。どんな方法を取ろうがそれは自由で、取り組む態度が悪ければ透けて見えるのが表現というものである。私は自我を捨てられたとき、本当の個性、オリジナリティというものが出るのではないか、というのが絵を描いていて思うところだが、それはオリジナリティに固執しているとそこから遠ざかるということなのだろうか。職人でも噺家でも何千何万と稽古を重ねて伝統的な型にオリジナリティを吹き込む。敬意を持って見ればそういうことになる。私はそれはここの板前一人一人にあるのかもしれないと思った。今日の私たちは寿司的なものを求めてやってきた通りすがりの客でしかなかったが、例えば「今日はあの店のラーメンでなければ納得できない」といった食事への想いがあるように、絹沢は私をライブに誘い、游児は游児で完全にノンフィクションのライブに行ったのだ。
  游児は今日完全にノンフィクションのライブを見なければいけなかった。あの店のラーメンでなければいけない日のように。私たちと合流して寿司をつまむまでは良いが、酒に弱いからビールで悪酔いして管を巻いて、トイレで吐いている。帰って寝て起きて、記憶はあるだろうか。合流したときは酔っていなかったからライブの記憶はある。ライブが、作品が、受け手にとってその後どんな風な刺激になるのかまでは作り手は感知しきれない。
  誰も、出口を知らないまま結論を求めて喋り合ったその場で得られる「結論」とは別に、またその機会を繰り返し繰り返して機が熟して何かが何かになって、また熟すると何かがさらに何かになっていってを繰り返し繰り返している「それ」を抱えている。みんなで出した結論めいたものより、よくわからない原料を孤独に鍛錬して形や使い道を色々試み続ける「それ」、そっちに本当の、新しい、自分にとって最高の結論を望んでいる、そのような気配がした。ロックも寿司もラーメンも、結局それぞれのむねのなかにしかない。

「昨日パチンコ買ったから大丈夫」
  目を閉じて游児は言った。寿司屋を出てすぐタクシー乗せ、金はあるかと私が訊く前のことだった。住所を告げて右ドアの窓に頭を付ける。その白いタクシーを見送って私は数分前からじりじりと思い始めていたので絹沢をラーメンに誘おうとしたが、いつものあの店はもうこの時間閉店している。とは言うものの途中から寿司より酒だったので腹は減っていた。なので誘う。「いいよ、俺もラーメンが食いたい」
  とりあえず、ラーメンの形をしていれば良かった。こころは満たせれなくても空腹は満たせる。絹沢も今きっと本当はあの店のラーメンを食べたいと思っているに違いなかったから、私と同じことを思っていた。その空腹感はむねのなかにいつもあるあの店のラーメンだったから、タクシーで眠る游児にも何らかの気配となって伝播していた。