ハッピードムドム by完全にノンフィクション 小野恭介

完全にノンフィクションというバンドのドラムスでございます。バンドのことをより楽しんでもらえればハッピーです。ドムドム。

解散によせて

  解散の話を聞いた時、僕にとってそれはまったく予想外の進路だったけれど、別所君はいろんな話をしてくれて、今ではすっかり僕のなかにもそれらは根付いている。不思議なもんである。
  これまでの完全にノンフィクションの歩み、あと聴いたことのない音楽を新曲として作ってきたとき、いつもこちらが予測できないようなことを思いつく別所君が中心になってやってきたバンドなのですが、それはこの度の解散という結論も含めて誰よりも彼が完全にノンフィクションのことを考えてくれていたからこその結果です。
  知ってくれている人もいるのですが我々三人は仲が良い。なぜなら高校で出会った友達だから。最近の活動ペースでなら本当はいつまでもバンドを組んでいられるくらい仲が良い。
  だけども完全にノンフィクションはここで終わりです。それは完全にノンフィクションそのものが一つの芸術作品のようなもので、作品としてここで終わるのが一番いいことだからだ。なんて誇り高いことだろう。
  芸術はいつの間にやら作者の意図を軽々超えていき、強い存在感を放つ。完ノンはメンバーそれぞれにとってかけがえのないものだったし、今後の人生にとってもただの思い出じゃなくて生きていくための何かになる。

  長い活動期間のラスト数年間、完全にノンフィクションのメンバーでいられたことを誇りに思います。
  完全にノンフィクションに触れてくださったあなたに、関わってくださったすべての方々に感謝いたします。
  そして、青春時代の続きを大人になってから再開したかのような幸せな瞬間や、バンドサウンドを深めていく上での苦悩や喜び、加入当時は忘れかけていたドラムという楽器への情熱や楽しさを思い出させてくれただけでなく今では人生でずっと続けたいと思うほど夢中にさせてくれたこと、何ものにも代え難いそれらを与えてくれた別所君と上野君、僕が入るまで完全にノンフィクションのもう一台のエンジンとして唯一無二のグルーヴを作り上げてくれた俊宏に心から感謝しています。

  皆様のおかげで音楽もバンドも素晴らしいと思えました。完全にノンフィクションは僕にとって宝物です。今まで本当にありがとうございました。

南海電車 - 2018 Re:TAKE

  2018年9月7日『Re:青版』が配信されました。

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1、南海電車 - 2018 Re:TAKE
2、アイスキャンデー - 2008 TAKE
3、natsu-no-omoide
4、DRUNK DAYS
各200円(税込)
全配信サイト、全ストリーミング媒体にて配信中。


  1曲目、南海電車という曲について、とても思い入れがあるので書きます。

  この曲は10年前に発売した曲の再録バージョンとなってまして、これまでにも(2013年頃だったか)一度再録されていて、ライブ会場限定販売の『裏・この音源は完全にノンフィクションです。』というアルバムに収録されました(実はアイスキャンデーも。このアルバムも幻の音源と言える)。
  なので通算3テイク目ということになります。
  曲の構成や歌詞に違いはありません。
  しかし音の感じは全然違います。
  あと初代を原曲とするならば再録の2つはそれぞれ新たに音が足されていて、聴きごたえが増しています。

   私、小野は10年以上前、当時のライブで初めてこの曲を聴いたとき、まず歌詞にぶっ飛んだ。探してみたら過去のブログに歌詞が掲載されていたので載せますね。

  以下、南海電車の歌詞。
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓


午前11時半
期末テスト終わって開放感

午後12時
飛び乗る南海電車、最寄りの駅までお願いします

午後12時半
「お昼ごはん何かな?」
「そうめん冷えてるよ。」

カルピス飲み干して友達の家まで走り出す


人前であのコは泣かないんだってさ。


地元の友達は今だにたむろってるのかな?
子供が友達おっかけて今、目の前、こけた。
地元の友達は、

...そっか

もう母親なんだな。

改札抜けて
晩ごはんの匂い、住宅街



wrote by hidekazu bessho



  なんというか、視点がどこにあるのか。
  完全にノンフィクションはこの頃からこういう一人称視点ではない歌詞を書き始め、歌声は別所英和でも歌詞の語り手が別所君自身ではない何者かに感じたり、時折これは本人の等身大の視点やなという箇所が出てきたり、徹頭徹尾風景が羅列されているだけのものもあったり、と、それは今でも試行錯誤が続いているが当時の私にはちょっと不思議な感じがして、自分自身も別のバンドをやっていたし歌詞にわかりやすく「ぼく」とか「おれ」が出てこない20代前半のロックバンドはちょっと周りにも見当たらないのでこれは只事ではない、と思った。

  そして音と相まって情景が浮かんでくるような曲が昔から好きで、私はこれは期末テストが終わったばかりの電車通学してる女の子が主人公だと思って聴いていたのですが、この少ない言葉数で表現される感情の機微も良い。
  そして中盤の、

  人前であのコは泣かないんだってさ。

  これを言っているのは誰?
  ちょっと不思議な感じがする。
  唐突に別所英和が出てきて注釈を入れているにしても、それとも誰かがこのコの噂話を囁く声だとしても、なんか不思議。こわくもある。そういう「わからなさ」が面白いんだよね、と今なら言えるが当時は言葉になっていないのでこれは只事ではない、音で映像をやってる感じやな、と言葉になっていないものだから説明になっていない言葉しか出てこなかったがとにかく感覚的に刺さった。

  描かれている情景が進んでいくテンポもサウンドに合わせて移り変わる。序盤はゆったりと、中盤は目まぐるしく、終盤はたんたんと。歌詞は読むと一定のスピードで安定して読めるが歌われると入ってくる情報が自分のテンポで処理できないからこの3パートは全然違う曲に聞こえる。感じている1秒の長さが別物になる。


  個人的に1番好きなのは冒頭の歌詞。

  期末テスト終わって開放感

  この、かーいほーうかん、の後の、
  バァーン!というバンドサウンドが、
「ーー夏休み、始まる……!」
  みたいな感じでパッキーンと7月後半の真っ青な空が眼前に広がっているように見えてワクワクするから好きです( ※あくまで個人の感想です。が、聴いたことない人は是非聴いてみて下さい)。
  この感じは10年前も高校生だった頃までの感覚を思い出させたし、10年やそこらでは色褪せなくて、34歳になった今でも思い出す。夏休みなんかないのに。

  私はこの曲で完全にノンフィクションのファンになり、その前から毎回ライブは観ていたから態度としてはこの前後で何も変わらなかったけれど、認識は「友達のバンド」から「好きなバンド」にはっきりと変わったのでした。





  さて、そんなわけでこの度南海電車を録音することになり、率直な感想は「マジか……」でした。
  録音が決まる前からライブでやるようになっていましたがキッカケは私が個人的にこの曲のドラミングを会得したくてスタジオで練習していた動画を別所君に見せたことでした。

「あ、ほなもう出来そうやな。ライブでやろう」
「マジで?」

  と、この時もこんな調子でしたがそれ以来気を引き締め直して練習しましたね。
  自分で蒔いた種、という諦めではなくどうも完全にノンフィクションにとってこの曲は重要で、原点の1つであると。そしてやるほどにその実感は増すばかりで、詳しくは別所君のブログに書かれていましたが「過去の完ノンの再現」ではなく当時の感覚を憑依させて今の完ノンで同じようにやる、過去として扱わず10年前と同じテンションで演奏する、という肉体ごと10年分タイムスリップさせる荒業でもって完全にノンフィクションな世界がある、いや、10年経った今も世界にはこういう少女がいてこういう情景がある、と思うのでそいつを断言するような演奏表現をする、ということですね。

  こうしてライブではやらなくなっていた曲が再びレギュラーにカムバックする出来事自体元ファンとして胸熱ですね。燃えます。
  10年前の小野に言ってやりたい。
「お前の好きなこの曲な、10年後もライブでやってるし、再録して発表されるで」
「嘘やん」
「いや、ホンマホンマ」
  私は、お前がドラムやるんやから、なかなか大変なんやから、今からドラムの練習始めとけや、と言いたくて仕方がないがリリースできた経緯や今感じている喜びや感慨深さを思うとこれはこれで何物にも代え難いことなのでニヤニヤしたままその場を立ち去る。それに自分が完ノンに入るなんてまったく夢にも思っていないあの頃の私の生活も、全力で完ノンを応援してたあの気持ちも何物にも代え難くてそれもいい。と今ならそこもすくって10年分の思いを込めて言える。南海電車はめちゃめちゃいい曲ですよ。
  歌われているのはあの頃の南海沿線の風景の中にいた少女でもあるし、今の南海沿線の風景の中にいる少女でもある。
  まだの方は音源是非聴いてみてください。
  そしてライブに来ていただいて音源よりもっとすごい「かーいほーうかん」の後の、

  バァーン!!

  を体感してほしいですね。
  

  

長い日記

  前回のやつを書いてからもずっと、その通りに過ごしている。音のこと、狂ったように散歩をしていること。
  それで何か変わったかと言うと随分変わってきた。そう自分では感じている。確か前回と今回との間に二回ライブがあってやっぱりライブは気付くことが多い。平たく言うと自信の何もかもを失った。ようやくそこから芽生えた自覚や始まったものを大切にしている。
  失った自信を取り戻すためじゃなく気付かず過ごしてきた時間を取り戻すためにしなければならない。

  とにかく練習だ。

  個人練習は大体いつも二時間スタジオを借りるが全然時間が足りない。それは三時間入っても五時間入っても同じで、昔から限られた時間の中でしかドラムセットでの練習はできないから、いつも最後は「もうちょっと叩きたかったな」で終わる。満ち足りたことはない。こんなに難しくて楽しくて奥が深いものはこれ以外僕は今までの人生の中ではちょっと経験がない。なのでまた次早くスタジオ入りたいな、という気持ちで帰る。確実に体力が削られている。
  ヒントはどこにでもいくらでも転がっていて、試す価値のあることはとにかくやってみる。頭のモードがそうさせるのか置かれている立場が気付かせるのか、やってみて割とすぐに感触がわかる。ヒントは答えを導き出すんじゃなくて感触をわからせる。答えなんかない。だけど完ノンには明快な音像、「音の正解」はある。今やっていることはありもしない人生の答えみたいなのを探す無謀な旅じゃなくて、単純に正解の音を出すことだ。文章というのは常に変な誤解を招くからわざわざこんなことまで書いて、でも伝えたいことは楽器の音だから、だからやっぱりライブに来てほしい。そうすれば一発で伝えられるから、その点は表現として音楽は素晴らしく優れている。

  別にそんな話は今したかったわけではないので戻すと、
「感触がわかる」の次は「身体を慣らす」で、これこそ反復しなければどうにもならなくて本当に時間が足りない。スタジオの防音扉の中がドラゴンボールの「精神と時の部屋」のように外の1日が中では365日だっけか、になってたらいいのにと思う。そしたら二時間の予約でも約一ヶ月くらい好きなだけ練習できる、とか算数が苦手なくせに計算してみるほど時間が足りない。
  足りない時間は要領で補って一刻も早くいい音が出せるようになりたい、と思っている。僕は何か一つの動作を行う時の要領は悪くない方だ。だけど長い目で見た場合の結果が今だ。要領が悪かったんだと思う。

  ただの日記になってしまった。
  ついでだから日記を続ける。

  僕は完全にノンフィクションはもっと評価されてもいいのにな、と思って生きている。正当な評価、という言葉の意味はよくわからないけれど、何か原因があって自分のしている評価に周りが届かないのならこれが現実なんだなと思う。まさしく正当な評価なのかもしれない。その原因は何なのだろうか、とアレコレ考えてみる。そして自分が原因なのじゃないか、というところに着地する。僕は僕の場合しか知らないから同じような思いをしているバンドマンがどれだけいるのかわからないけども、信じてやっていたことが思うように評価されない時、それを受け容れるまでの時間に何を感じるかで今後が変わってくる。で、今回は明らかに、少なくとも僕は間違っていたんだと思ったからこんな話をしている。
  さっきドラムのことをこんなに難しくて楽しくて奥が深い、と言ったけども最近のそれは難しさも楽しさも奥深さも何十倍も大きくなった状態で、ほんの数ヶ月前までの感想とはワケが違う。規模も意味も違う。いてもたってもいられなくなる。スタジオに入る。試す価値のあることを試す。なるほど、そういうことか!  じゃあこうしたらどうだろう、ああ、これはいい!  あ、もう時間か。もうちょっと叩きたかったな。次早くスタジオ入りたいな。そして帰る。確実に体力が削られている。

  スタジオに入ってからの一連は自分を俯瞰してみるとドラム始めたばかりの高校生とか大学生みたいだ。痛感したことの一つに、実際僕の出していた音はそれに毛が生えた程度のもので、確かに二十代の大半がドラムから離れた生活だったのだけれど、ひどく長い間一種の誤解と言うか、浅い理解のまま過ごしてきた、そこまではまだいい。問題は完ノンに入ってからの三年くらいの期間の方で、僕の浅かった理解はなまじ時が経過したせいでなかなかそこに原因があると気付かず愚直に手足をばたつかせて練習していた。ドラムという楽器の構造や人間の肉体、うまいドラマーも超人ではなく人間であるということをちゃんと理解できていなかったのだ。なんであの人はあんなにドラマーなのだろう、きっと身体の出来が違うのだ、センスがすごいんだ、何年も努力を惜しまず一途に続けて獲得したんだ俺のように他のことに目移りしなかったそういういう人だけが本当のドラマーなんだ。
  そうじゃない。
  と今は思っている。すごすぎて人間業には見えなくても、人間が叩き出してる以上不可能ではないんだと、それが最近わかって、難しさも楽しさも奥深さも何十倍も大きく膨れ上がった。もちろん持って生まれた素質や育まれたセンスや惜しまない努力がそれを可能にしているのだけど、そういう人が最も「人間らしい」と言うか、いちいち美しい。かっこいい。憧れる。前は超人に憧れる感じだったけど、今は人として尊敬している。

  と、わかったところでどうするか。
  自分もそうなる! じゃなくて、できること、やりたいことを冷静に考えてみる。僕はやっぱり「完全にノンフィクションのドラマー」になりたい。
  立場は今すでにそうなのだけれど、上記のこと、ここ最近の感触、前回と前々回に書いたことを踏まえてやっぱりそう思う。まだなれていない。もっと評価されないのは自分のせいじゃないか、こいつと戦い続ける。そして三人でどうすればいいか考えたりより良い音楽をしていきたい。
  前回書いたことと同じように、その通りに過ごしているけれど内容や密度が変わってきたので書いてみようと思ったら長い日記になった。読んでくれてありがとう。


  余談だけど最近は次の日が休み、というタイミングで深夜にスタジオに入るのにハマっている。疲れているのでハイになる。そして電車がないから三、四十分かけて歩いて帰っている。これが散歩も兼ねていて良い。確実に体力は削られている。ドラゴンボールに出てくる回復する液体のカプセルに入りたい。そして全回復したのちまた散歩に繰り出・し・たい!

ベストアクト

  今までのベストアクトがどのライブの演奏だったかと言うと正直全然記憶になくて、ただこの日は良かったとか調子悪かったとかアクシデントが起こってまともな演奏にならなかったとか、全員が身体が軽くて集中できて練習通りのかっこいいと思う完ノンのライブができたとかお客さんが盛り上がってくれてバンドが想定以上にグルーヴしたとか、セットリストや繋ぎが秀逸だったとか、ボイスメモに残っているライブの録音を聴けば記憶もよみがえるし出ている音で大体わかる。ずっとやっている曲なんかは毎回同じに聴こえるけど一粒一粒の音の鳴りは絶対に同じではないからそういう聴き方をすればバンドをやっていない人でもわかる。

  自分たちがあんまりやなぁと思ったライブが観ていた人からたくさん好評をいただいたり、自分たちが今できる最高のアクトをしたと思っても誰も評価してくれなかったり、というのはライブをしたことがある人なら誰でも経験があることだ。ベストアクトの、何を以って「ベスト」なのかは時と場合による。

  自分の演奏には全然満足していないけれど最近は楽しいなぁとライブ中に思うことが増えた。完ノンに入った当初と比べると元々の性格までは変わっていないのでライブへのモチベーションは同じだが自分の出す音の役割というのがだいぶわかるようになったし出せるようにはなったと思う。まだまだ全然満足はしていないけれど。もっとうまくならななぁと思うそれが、テクニカルなことだけではなくて単純なビートでもうまいへたがあるようにその差が何なのか考えながら過ごしています。考えるというのは頭で言葉にしていく理詰めの作業のことじゃなくて耳とか肉体が鳴る音に感応するように維持している状態です。

  少し前になるけれど別所君と散歩して、この話をした。いろんな話をしたけれど、この、音の話が一番グッときた。物凄く共鳴しているのを感じた。僕らは元々友達で、僕は彼が誘ってくれたからスタジオに入るようになった。そこから多分三年くらいは経ったけど、友達歴はもう十五年になる。三年前なんてつい最近だ。だけど一緒にいて一番盛り上がるのがこんな話なんて、それってすごいことなんじゃないかなと思った。歩き回りコンビニをハシゴして酒を買い、自販機で変なチューハイを買ってげらげら笑ったり、同じ街の違う区画をぐるぐる歩いたり、気ままに生ビールと餃子を食いに行き、追加で瓶ビールと餃子を食い、店を出てここどこやねんと叫んだり、公園で憤りを語ったり昔話をしたりもしたけれど、その日一番盛り上がり共鳴したのはバンドの音の話だった。それは紛れもなく魂の交感だ。なんで?とこうやって書いたり振り返っている時は思う。それはね、バンドが今を生きてるからだよ、とスタジオに入り音を合わせるとバンドが教えてくれる。あ、そうか、今は過去じゃないんや、誰も過去にはいないんや、と気付く。でも本当にちゃんと気付けているのは、身体がそうなっているのは、音を出している時や真剣にバンドの話をしている時だけだ。とても不思議な、変な関係だ。

ところで最近はよく散歩をする。本当にもう、ほとんど毎日、狂ったように散歩している。時間はあまりかけずに、夜帰る前に、疲れているので無理のない距離を、気ままにコースを決めて気軽に缶ビールなどを片手に。しかしそれでも散歩に狂っていると言える。なんだか取り憑かれたように夜中徘徊しているやつがおるで、と自分で自分を道路を挟んだ向かいの歩道から眺めている感覚がある。まともか異常かなんてどうでもいいけれど。こんなにも散歩をするのは外に出ると歩きてぇと思うからなのだが、やっぱり僕はこの季節が好きなのだ。

別所君と散歩したのも気候が良いからだった。
また行こうな、と言って別れた。こないだのスタジオでもまた散歩しよなと言った。早く散歩に行きたい。

夏の思い出

  こんなにも夏が終わっていくのをさみしいと感じる人間になるなんて思いも寄らないことだった。これは完全に、完全にノンフィクションに在籍していることによる影響だ。

  季節では僕は秋が一番好きだ。それは今も変わらない。そう簡単に一番は変わらない。だけどこのまま完全にノンフィクションが続けば、僕の一番好きな季節が夏になることは充分にあり得ることだ。ひょっとしたら来年あたりそうなっている可能性もあって、ごく自然なことのようにも感じて、でもそれはやっぱりどこか自分に嘘をついている。最近あまり物事を深く考えないように、考えなくて済むように動いていて、それは良くないんじゃないかと思う。それは技術だから、心のどこかは圧迫されてる。昔より馬鹿になった気がする。

  少年のように考えてみることにした。少年の時の発想なんてもう出てこないけれど、少年の考えている時の密度で物事を捉える。季節はきっと捉え方を左右するだろう。季節や気候に左右されながら少年の密度で物事を見つめてみる。昔、届きたいと思っていた感覚やなりたかった自分が霞の向こうにいる気配。それぞれ季節の良さがそれぞれに一番だというのは当たり前なことで、だから一番好きな季節とかどうでもいいけれど、夏が好きだと言いたい。夏が嫌いで完全にノンフィクションのいい音が出せるわけがない。

  七月、夏になってきた頃にワンマンをして、八月末の夏の終わりを噛みしめながら三本もライブをした。僕にとっては間違いなく夏の思い出だった。完全にノンフィクションはどうだろうか。バンドは生きている。バンドが出している音は音だから目で見えないけれど目以外で見ている。耳や身体に伝わる振動で見えてくる。音からイメージが湧く。僕にはそれぞれ得体のしれない生き物が動いているように見える。バンドごとに顔や形が違う、音を具現化したオリジナリティ溢れる容姿をしたバケモノ達。で、完全にノンフィクションの音の奴、今年の夏はたくましく精悍になった。こいつはまだまだ成長する、と音が遊ぶ姿を見ていて思った。成熟したらもう出せないものもあるんだろうけど、今はまだどっちもある。エネルギッシュさも、大人らしさも。今、完全にノンフィクションが出している音はきっと今だけです。今!
  

MINAMI WHEEL 2016 出演します

  完全にノンフィクションがミナミホイールに出演することになりました。
  三年ぶり二度目。
  三年前、完全にノンフィクションはSUN HALLで演奏した。僕は客席からそれを観ていた。確か最前列だったと思う。ステージに幕が下がったまま行われたサウンドチェックは開幕戦というテンポの速い曲で、ヒリヒリと緊張感が伝わってくる。音が止んで僕は隣にいた山下君に、
ハイハットのオープンクローズが、」
  と言った。
「え?」
ハイハットのオープンクローズがカンペキやな!」
「おお!」
  山下君は笑顔だった。当然僕も笑っていた。そこから約五分、幕が開くのを待った。待つ間、いつもと違ってまるでこれから自分がライブするみたいに、少し緊張したのを憶えている。
  そうして幕が開いて、完全にノンフィクションはいつもと同じSEで登場し、とてもいいライブをした。僕は始めこそ緊張していたものの、観ているうちにいつもと同じとてもいいテンションになっていた。本番で演奏された開幕戦もまた、ハイハットのオープンクローズがカンペキだった。

  そしてなんやかんやあって三年経った。

  とても言い尽くせないくらいたくさんのなんやかんやがあったことを、ミナミホイールという言葉に触れると思い出す。半年以上前になるが難波ロケッツ閉店、という言葉を聞いたときもそうだった。新しい曲も増えたし、昔の曲がリアレンジされたりもした。別所君の使用ギターは長年ずっと同じだが弾き方が三年前と全然違うし、少しマニアックな話だがサウンドの重心が低くなったし。よう見たらドラマー違うし。まぁ上野君は相変わらずかっこいい。中音に関しては三年前と比較できないけれど、昔より音のど真ん中にいる気がする。
  これらなんやかんやは日頃からひしひしと感じているわけではなくて、普段バンドは生活に溶け込んでいるため目標なり課題なり感じるところと向き合うばかりです。そして完全にノンフィクションというバンドを考えたとき、なんやかんやあるけど変わらないものがある。それは言葉でうまく説明はできないことだけどその変わらない部分が僕は好きで燃える。
  以前にも触れたことがあるけれどこの世にはすげえバンドがたくさんいる。僕的にはわくわくするようなバンドがたくさんいて、音楽シーンに詳しいわけではないからまだ知らないバンドも山ほどいるが、経験的にまだまだ山のようにいいバンドがいるんだろうな、と確信している。バンドにはそれぞれ固有の成り立ちがあるからそれはまるで人との出会いのようでもあるけども音楽はあくまで情報としての側面が強く、しかしそれは演者の言語やシュミや生き方を抽出したものだから初対面でも煩わしい前置きが不要でいきなり通じてしまったり受け手の感受性の方向次第でもっと共鳴したり高揚したりむちゃくちゃ笑えたりじんわり泣けたりする。初対面のひとらやのに。ミナミホイールはたくさんバンドが出る。知ってるバンドもいるし僕自身はまだお目にかかったことのないバンドもたくさんいる。好きなバンドでリレーしていく楽しみ方ももちろん最高だけど知らないバンドに出会うのもライブサーキットの醍醐味だと思います。来場される方々のシュミや生き方にぴったりくるような知らないバンドに出会える場。本来規模の大小を問わずライブイベントとはそういものであった、と、今更ながら喋ってるうちに再認識。

  完全にノンフィクションの成り立ちはとてもシンプルで高校時代の軽音部のメンバーで構成されている。
  色々となんやかんやはあった。別所君と上野君は高校の外でヴィジュアル系バンドもやっていた。完ノンの前身バンドは初めはオリジナルメンバー三人だったがなんやかんやあってベーシストが何度か変わったが上野君は戻ってきてバンドは完全にノンフィクションとしてリスタートした。
  そしてライブの日々。いくつもの素晴らしいバンドとの出会い。音楽的実験。グルーヴの進化。全国リリース。「バンドプロジェクト」への移行。海外遠征。全国ツアー。活動休止ワンマン。これらを僕は近くで見ていた。ライブを見に行った回数も当時ならぶっちぎりで一位だった。よく別所君が運転する車でドライブした。それは作曲のインスピレーションを得るためだ。飲み屋で一緒に新曲のタイトルを考えたりもした。メンバーになる以前にも何本かミュージックビデオに出た。言うなればバンドの「裏側」を目の当たりにしてきたわけだけど、僕が加入してからのなんやかんやも含めて来年で10周年を迎える完全にノンフィクションの歴史は僕たちの出会ってからの15、6年間のなかに組み込まれていることにもなる。なのでそれらはバンドのためというより友達のためでもある。僕がメンバーになったのも二人と友達だったからだ。
  上野君がツイッターでミナミホイールは時季的に高校の文化祭を思い出す、と言っていて熱い。14年経ってまたあの空気を感じることができる、と。これは個人個人のむねのなかに宿ることだが、バンドには来年10周年のタイミングがあり、熱い。この二つの熱を融合させることが相乗効果を生むと信じる。そしてそれは完ノンが獲得し循環させていくべきエネルギーだ。特定の条件下にしか生まれない天然資源のようなもので、学生時代の友達同士でバンドをやるのは別に珍しくも新しくもないけれど十代の間に共有した感覚はバンドをやるうえでしっくりくる。バンドの成り立ちはバンドごとにオンリーワンだし、演奏のグルーヴも単に音の重なりだけじゃなくて耳や目で知覚できないレベルでオンリーワンが巻き起こっているのはどのバンドを観ても感じるが、それは必然性というやつだ。それは音や姿の形のなかに顕れる。僕の個人的な感情が今回のミナミホイールとたまたま重なってくれたおかげで完ノンの成り立ちだとかにも目を向ける機会になった。もっともっと続いていくと今以上にまるでバンドをやるために出会ったとしか思えないくらいになるが、やっぱり違うのだ。僕にとってはただ友達とすげえわくわくするようなことをやれている貴重な場所の一つで、それらは有機的に結びつく。
  それにしてもこの世のバンドたちはどこへ向かうのか。多分ほとんどのバンドがそういうことじゃなくてエネルギーの塊になってそこにいる。どこへ向かうでもなくたどり着いた場所が本当の世界だ。心斎橋のそこかしこが本当の世界だ。電車やバス、自転車や徒歩で皆様に心斎橋にお越しいただくけども、ミナミホイールに点在する世界の数々は時間毎にまったく違う表情を見せ、日頃の心斎橋よりも異次元への扉が開かれている。そういうSF的なエリアだ。ライブハウスとは素晴らしい場所で演奏が鳴ればそこにいる人の記憶やこころの場所と繋がる。たった一つの音楽がそこで聴いた人の数だけ高揚したり笑えたり泣けたりする多様性をはらんでいる。
  三年前は真正面から完全にノンフィクションを楽しんだが今回は二人の背後に回り背中を見ながら楽しませてもらおうと思います。

ワンシーズンに一回くらいしかブログ書いてへんやん 〜夏編〜

  完全にノンフィクションは夏の曲が多い。完全にノンフィクションというバンドを知っている人のなかで夏のイメージを持っている人はどれくらいいるのだろう。別所君は日本を代表する夏のバンドであるTUBEが好きで二十代前半の頃はしょっちゅうドライブをして、車を運転しながらTUBEをかけていた。
「夏のバンドになりたいわー」
  とよく言っていた。当時日本の夏の暑さは年々増していくようで、元々極度の汗っかきであるぼくは夏を敬遠しがちだったがTUBEを聴いている間は夏がありがたいもののように感じられ、TUBEの音楽はTUBEに対してでなく夏に対しての敬意を促す。そしてTUBEの存在はむしろ季節や自然の恩恵の側になっていた。
  ぼくは年々夏が好きになっている。別所君の見ている夏が、ぼくにも少し見えるようになった気がする。夏へと注いでいる愛情のカタチというか気配というか、在り方がぼくのなかにも存在し始めているのかもしれない。だけれどもすべては気まぐれかもしれなくて、そんなこと関係なく完全にノンフィクションの音楽は夏をやる。

真夏の公園
アイスキャンデー
28℃
DRUNK DAYS
たまに浴衣美人
2015年感覚

  ちょっと思い出しただけで夏の情景を描いてるとはっきりわかる曲がこれだけある。
  でも、ぼくには他の曲も夏に見える。
  MUSESSOU COMMUNICATIONという曲に出てくる、「それでも街は水色」という歌詞はデモを聴いたときにブワァと夏の街の風景、頭の中で大阪のキタのオフィス街が夕日を浴びていた。2/3ノンフィクションの「屋上カメラが映し出す映像」も夏だ。「午前中の東住吉区」も夏だ。「嫌んなったって月火水木金土日!」も夏だ。「西日が向かいの団地に反射して眩しい。」のも夏だ。「みんなで見れたらいい。」のも夏の風景だ、と思う。多分。
  書いた本人が頭の中でどこまで具体的な風景を描きだしているか、そして聴き手に描きだしてほしい風景がどこまで具体性を必要としているか、曲ごとに問い合わせれば多分答えてくれるだろうけれどここは音楽の楽しみ方の一つとして、勝手に想像させてもらおう。飛田新地の「青空を阪神高速がぶった斬る」は文句なしに名フレーズだと思う。ここには視界に映る夏のはっきりとした色合いがある。見上げた空と、阪神高速はとけ合わない。町の違和感と頭上を湾曲して通る阪神高速が異物としてそこに在る様子が夏の午前中の光のなかにくっきりと浮かぶ。そして、歌詞だけでなくそういった夏のイメージはサウンドによっても喚起される。
  ギターの音色。完ノンのギターの、ほどよく歪んだ音や広がりのあるリヴァーブは視覚イメージだけでなく時には匂いや肌の感覚まで刺激する。真夏の公園でずっと鳴ってる音は夏中耳にしている蝉の鳴き声のようだ。そしてアイスキャンデーの冒頭のあの音。歌詞にある、「花火大会終わって家に着いた時に優しいクーラーの涼しさ」もそうだが、それを思い出しているベランダで食べているアイスキャンデーの冷たさやそこに吹く夜風の涼しさが肌を包む。ぼくは夏の暑い日に外を移動しているとこの曲が聴きたくなってウォークマンだったりライブでやった時に録音したものだったりをかけて涼をとる。暑いから、コンビニに立ち寄ってアイスキャンデーを買って食べるみたいに、暑いからアイスキャンデーを聴こうと思う。クーラーの効いた屋内に入った時のように、涼しい、と錯覚する。風鈴の音色なんかを軽く超えていく。そこにはどんな季節だろうと頭の中に夏があり、常に夏に照準を絞った生き方をしてきた別所君の身体性が反映されている。そんな人はTUBE以外になかなかいない。冬もいいよね、なんて言ったりしない。TUBEにも冬の曲があるように、完ノンにも秋や冬を感じさせないでもない曲は何曲かある。別所君は本当は秋も好きだ。ただ、飛び抜けて一番夏が好きなのだ。
  ぼくが言えることの一つとして、夏が先にあるからTUBEがあり、完ノンもそこに属している。別所君はTUBEみたいになりたくてバンドをしたわけではなくて、夏があるから夏の曲を書く。夏を表現しようとすることもあるし、勝手に夏になっていたこともある。音楽はどこかから降り注いだりするしふいに何かと響き合う。身体の内側から湧き起こる何かは身体の外側と無関係なわけがなく、心と世界は表裏一体である。ぼくは四季がある場所で夏をありがたがっている。ありがたがれる喜びを教えてくれるTUBEや完ノンにとても感謝しています。


  最後に豆知識というか、
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 驚愕の事実ですが、 完ノンのCDジャケは実はリバーシブル仕様でした。
  お好みに合わせてご使用になれます。ライブ会場の物販にて販売してますのでよろしくお願いします。

  完ノンの次のライブは9月です。9月というとまだまだ暑いですが夏感は少ない。だけども夏を感じる曲は、聴くことによって夏を終わらせることもできる。9月の夜に夏を継続させるか終わらせるかはあなた次第。お待ちしています。


ドラム  小野